四住期

ここに、田舎暮らしの一つの動機がある。(この記事を転載させてもらい自分の考えを煮詰めます)

インドでは人生を前半と後半に分けて考える。前半は自己実現の時期で、後半は自己放棄の時期だ。いわば峠へ上ってゆく時期と峠のむこうへ下ってゆく時期といえるだろうか。あるいは、種子が芽をだして成長し、花を咲かせるまでが前半生であるとすれば、花が散って実をつけ、落葉して枯れ果てるまでが後半生である。
 カール・ユングもやはり人生を二つの時期に分けて考えるべきであるとしている。彼によれば、人は前半生で教育を受け、仕事を持ち、結婚して家庭を築き、社会での地位と人望を得るための努力を行う。しかし後半生においては内面性を高め、人格を向上し、社会と文化のために貢献するよう努力しなければならない。前半生と後半生には変化が必要であって、前半の人生観と方法論を後半に引きずって持ち込んではならない。そうしないと達成のために社会で悪戦苦闘していた間におろそかにしてきた内面生活を高める機会を逸し、人格を損なって苦しむことになると警告している。

-四住期-
 インドの伝統によれば、人間の寿命は百年で、人生の前半と後半をさらにそれぞれ二分して、ブラフマチャーリア、グリハスタ、ヴァーナプラスタ、サニヤースという四つの修道段階に分けている。最初のブラフマチャーリアは真理を学ぶ学生期。子供の学習期間が二五年というのは今日の社会でもほぼおなじである。学生期を終えるとグリハスタすなわち家住期がはじまる。結婚して子供を儲け、家庭を築き、妻として夫として暮らす時期だ。次がヴァーナプラスタ―ヴァーナとは森、プラスタとは退くという意味、つまり林住期である。子育てを終え、家族を養う義務を果たし終えて老齢期にさしかかったものは、家を離れて森に引退し、内面的な生活にはいる。あるいは社会全体のために働かねばならない。そして最後がサニヤース―出離期。これは社会から引退するだけでなく、人生そのものから離れて神へ帰る時期だ。




 この人生観に従えば、人生の最も重要な時期は隠退してからの後半生にあるのであって、前半生は準備期間にすぎない。ところが現代の日本人は金が稼げる間だけが人生であると信じている。だから定年退職したらゴミ同然、社会的にはほとんど存在価値がない。周りからそう見られるだけでなく、自分自身もそう信じている。それは金を稼ぐこと以外の人生目標を持っていないから。人生の後半の目標を持たずに、前半の価値観と生き方を死ぬまで引きずっているからである。
 アメリカ人も、まるで人生が春ばかりであるかのように、いつまでも花を追い求めて、ついに飛花落葉の美を知ることがないようだ。自分はどれだけ若いか・・・…歳をとっていないか・・・…戦々恐々しながら後ろずさりに生きている。老に面と向かい合い、死を正面から見つめて積極的に前進することがない。これもまた老=成熟の価値を知らずに、前半生の人生観だけで一生を過ごしているのである。これでは自分の人生がスポイルされるだけでなく、社会に対しても大きな害をなすことになってしまう。



-木の心と森の心 -
 『マヌの法典』を著わしたマヌは、「髪に白いものが混じり、孫の顔を見たとき、家住者は森に隠退すべきである」と述べている。そういえば、ぼくの髪もずいぶん白くなった。孫の顔はまだ見ないが、それは最近の若者がいつまでも結婚しないからにすぎない。

<いにしへは心のままにしたがひぬ 心よいまはわれにしたがへ>

一遍上人の歌である。これまでぼくは心のままに生きてきた。しかし心を自分に従わせることができずに、いまだに心に振り回されっぱなしではないか。畑を耕し、道をつくり、水道を掘り、家を建て、レストランを経営し、子供を育て、農場を建設してきた。でも生活の忙しさにかまけて、内面生活に十分なエネルギーと時間を費やすことができなかった。
 成長はもう十分なのではないか。もうこれ以上の成長はやめにして、これからは人生を収束に向かわせなくてはならないのではないか。そうしないと内面的に自己を啓発する機会を失ってしまう。社会のために働く時期を逸してしまう。人生全体を無駄にしてしまいかねない。成長とは道なかばなのだ。ほんとうに大切なことは、実現したものを手離すことではなかろうか。なすべきは、これまで何十年かかけて実現してきたものを、これから死ぬまでのあいだに手離してしまうこと。それが成熟というものであろう。木や草は、夏の間にあれほど繁らせた葉を、冬になると惜しげもなく落としてしまう。個を捨てて種にもどる。
 森にはえている木は、個として一本の木であると同時に、個を超えた森という存在でもある。そのように人は個人であると同時に社会あるいは生態系という超個的存在でもあるのだ。ぼくたちの内面には個としての心――エゴ意識――と同時に、より深い内面には超個的な広く大きい心が存在する。この小さな心と大きな心をそれぞれ<木の心>と<森の心>と呼ぶならば、人は前半生において、主として<木の心>の活動によって周囲の人々と競争し、あるいは助け合いながら成長し、家族を守って生きる。そしてマヌは、人は後半生において、個と個の競合する社会から隠退して、社会や生態系というより広く大きな<森の心>にめざめ、調和した生き方をなすべきである、と説いている。



-成長から成熟へ-
 家住期から林住期へのターニングポイントにおいて、人はアイデンティティを<木>から<森>へとシフトする。
 同様に文明もまた<成長期>から<成熟期>へ移行しなければならないのではないだろうか。
 小さな惑星の限られた自然環境のなかで無限の経済発展を続けることはできない。一九七二年のローマクラブによる『成長の限界』から一九九〇年にアメリカ合衆国政府によって刊行された『西暦二〇〇〇年の世界』まで、この間に七つの科学的未来予測が世界のトップクラスのシンクタンクから出されているが、そのいずれもが一様におなじ警告を発している。それは、「このまま発展を続けるなら、二一世紀の早い段階に、世界は成長の限界に達する」という極めて悲観的な未来予測だ。
 世界中がいつまでも大量生産・大量消費・大量廃棄の経済を持続することはできない。それに、物質的繁栄のどこに人間の幸福があり、平和があるというのだろう。むしろグローバリズムによって経済格差が広がって、世界はますます不安定になっているではないか。膨大な廃棄物によって環境は破壊され、急速に砂漠化が進み、天然林は減少し続けている。癌などの文明病は蔓延し、子供たちがどんなに息苦しく、うるおいのない生活を強いられていることか。こんな世界で子供を産みたくない、という母親の声は切実である。
 「このまま発展を続けるならば世界は成長の限界に達する」という未来予測は、ユングの「成長期の生き方を後半生にまで持ちこむなら、内的生活を高める機会を失って、苦しむことになる」という警告と一致する。
 成長の限界とは成熟のはじまりである。
 成長に限界が見えたのは、成熟期へ移行する時がきたということだ。
 ∞(無限大)をめざして成長してきた文明は〇(ゼロ)をめざして成熟する林住期にはいらなければならないのだ。
 では、〇をめざす成熟とはいかなるものか?
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by kimizudo | 2006-12-04 04:24 | 田舎暮らし  

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