植物の葉はなぜ緑色なのか、と共生進化

昔から解けなかったが最近かなりこの謎が解けてきた。
以前より疑問だった1、「葉っぱはなぜ緑色を選んだか」2「優性思想はなぜだめだというのか」
この疑問は共通していると直感していた。今までの生物進化論(進化という言い方は問題があるが)はダーウインの本意を一部切り取りして社会に適用されてきてしまった。弱肉強食、自然淘汰、適者生存などがそれである。
生物(特に人間)が太陽光のうち可視光線を色として識別するのは生存のためである。生物によっては明暗だけで用が足りる場合もある。
植物の葉が緑色なのは緑色を反射しているからである。可視光線(日本人は赤橙黄緑青藍紫)
のうち光合成エネルギー密度は中央の緑が一番高い。しかし葉っぱはそこよりも
両端の赤と紫を多く利用している。これは森の生態系に関係する。森は7層に分けられる。一番上の高木が全てのエネルギーを取ってしまえば下の6層は生きられない。結果高木も生きられない。自分だけでなく他に利益を与えて自分も生きる関係の中に生態系はある。植物同士、植物と動物、動物同士も同じ関係にある。(植物は菌類と区別される、生産者(植物)消費者(動物)分解者(菌類))。生命同士が助け合う関係の中に己の命が花開くようになっているのです。生物は競争で生き残ってきたのではなく、相手を助けることにより自分の利益を最大にして生き残ってきたのであるという共生進化。これが注目されている。このことで「優性思想」の反生物的
意味が見えてきます。多様性の意味も解ってきます。」
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# by kimizudo | 2007-03-24 20:06 |  

四住期

ここに、田舎暮らしの一つの動機がある。(この記事を転載させてもらい自分の考えを煮詰めます)

インドでは人生を前半と後半に分けて考える。前半は自己実現の時期で、後半は自己放棄の時期だ。いわば峠へ上ってゆく時期と峠のむこうへ下ってゆく時期といえるだろうか。あるいは、種子が芽をだして成長し、花を咲かせるまでが前半生であるとすれば、花が散って実をつけ、落葉して枯れ果てるまでが後半生である。
 カール・ユングもやはり人生を二つの時期に分けて考えるべきであるとしている。彼によれば、人は前半生で教育を受け、仕事を持ち、結婚して家庭を築き、社会での地位と人望を得るための努力を行う。しかし後半生においては内面性を高め、人格を向上し、社会と文化のために貢献するよう努力しなければならない。前半生と後半生には変化が必要であって、前半の人生観と方法論を後半に引きずって持ち込んではならない。そうしないと達成のために社会で悪戦苦闘していた間におろそかにしてきた内面生活を高める機会を逸し、人格を損なって苦しむことになると警告している。

-四住期-
 インドの伝統によれば、人間の寿命は百年で、人生の前半と後半をさらにそれぞれ二分して、ブラフマチャーリア、グリハスタ、ヴァーナプラスタ、サニヤースという四つの修道段階に分けている。最初のブラフマチャーリアは真理を学ぶ学生期。子供の学習期間が二五年というのは今日の社会でもほぼおなじである。学生期を終えるとグリハスタすなわち家住期がはじまる。結婚して子供を儲け、家庭を築き、妻として夫として暮らす時期だ。次がヴァーナプラスタ―ヴァーナとは森、プラスタとは退くという意味、つまり林住期である。子育てを終え、家族を養う義務を果たし終えて老齢期にさしかかったものは、家を離れて森に引退し、内面的な生活にはいる。あるいは社会全体のために働かねばならない。そして最後がサニヤース―出離期。これは社会から引退するだけでなく、人生そのものから離れて神へ帰る時期だ。




 この人生観に従えば、人生の最も重要な時期は隠退してからの後半生にあるのであって、前半生は準備期間にすぎない。ところが現代の日本人は金が稼げる間だけが人生であると信じている。だから定年退職したらゴミ同然、社会的にはほとんど存在価値がない。周りからそう見られるだけでなく、自分自身もそう信じている。それは金を稼ぐこと以外の人生目標を持っていないから。人生の後半の目標を持たずに、前半の価値観と生き方を死ぬまで引きずっているからである。
 アメリカ人も、まるで人生が春ばかりであるかのように、いつまでも花を追い求めて、ついに飛花落葉の美を知ることがないようだ。自分はどれだけ若いか・・・…歳をとっていないか・・・…戦々恐々しながら後ろずさりに生きている。老に面と向かい合い、死を正面から見つめて積極的に前進することがない。これもまた老=成熟の価値を知らずに、前半生の人生観だけで一生を過ごしているのである。これでは自分の人生がスポイルされるだけでなく、社会に対しても大きな害をなすことになってしまう。



-木の心と森の心 -
 『マヌの法典』を著わしたマヌは、「髪に白いものが混じり、孫の顔を見たとき、家住者は森に隠退すべきである」と述べている。そういえば、ぼくの髪もずいぶん白くなった。孫の顔はまだ見ないが、それは最近の若者がいつまでも結婚しないからにすぎない。

<いにしへは心のままにしたがひぬ 心よいまはわれにしたがへ>

一遍上人の歌である。これまでぼくは心のままに生きてきた。しかし心を自分に従わせることができずに、いまだに心に振り回されっぱなしではないか。畑を耕し、道をつくり、水道を掘り、家を建て、レストランを経営し、子供を育て、農場を建設してきた。でも生活の忙しさにかまけて、内面生活に十分なエネルギーと時間を費やすことができなかった。
 成長はもう十分なのではないか。もうこれ以上の成長はやめにして、これからは人生を収束に向かわせなくてはならないのではないか。そうしないと内面的に自己を啓発する機会を失ってしまう。社会のために働く時期を逸してしまう。人生全体を無駄にしてしまいかねない。成長とは道なかばなのだ。ほんとうに大切なことは、実現したものを手離すことではなかろうか。なすべきは、これまで何十年かかけて実現してきたものを、これから死ぬまでのあいだに手離してしまうこと。それが成熟というものであろう。木や草は、夏の間にあれほど繁らせた葉を、冬になると惜しげもなく落としてしまう。個を捨てて種にもどる。
 森にはえている木は、個として一本の木であると同時に、個を超えた森という存在でもある。そのように人は個人であると同時に社会あるいは生態系という超個的存在でもあるのだ。ぼくたちの内面には個としての心――エゴ意識――と同時に、より深い内面には超個的な広く大きい心が存在する。この小さな心と大きな心をそれぞれ<木の心>と<森の心>と呼ぶならば、人は前半生において、主として<木の心>の活動によって周囲の人々と競争し、あるいは助け合いながら成長し、家族を守って生きる。そしてマヌは、人は後半生において、個と個の競合する社会から隠退して、社会や生態系というより広く大きな<森の心>にめざめ、調和した生き方をなすべきである、と説いている。



-成長から成熟へ-
 家住期から林住期へのターニングポイントにおいて、人はアイデンティティを<木>から<森>へとシフトする。
 同様に文明もまた<成長期>から<成熟期>へ移行しなければならないのではないだろうか。
 小さな惑星の限られた自然環境のなかで無限の経済発展を続けることはできない。一九七二年のローマクラブによる『成長の限界』から一九九〇年にアメリカ合衆国政府によって刊行された『西暦二〇〇〇年の世界』まで、この間に七つの科学的未来予測が世界のトップクラスのシンクタンクから出されているが、そのいずれもが一様におなじ警告を発している。それは、「このまま発展を続けるなら、二一世紀の早い段階に、世界は成長の限界に達する」という極めて悲観的な未来予測だ。
 世界中がいつまでも大量生産・大量消費・大量廃棄の経済を持続することはできない。それに、物質的繁栄のどこに人間の幸福があり、平和があるというのだろう。むしろグローバリズムによって経済格差が広がって、世界はますます不安定になっているではないか。膨大な廃棄物によって環境は破壊され、急速に砂漠化が進み、天然林は減少し続けている。癌などの文明病は蔓延し、子供たちがどんなに息苦しく、うるおいのない生活を強いられていることか。こんな世界で子供を産みたくない、という母親の声は切実である。
 「このまま発展を続けるならば世界は成長の限界に達する」という未来予測は、ユングの「成長期の生き方を後半生にまで持ちこむなら、内的生活を高める機会を失って、苦しむことになる」という警告と一致する。
 成長の限界とは成熟のはじまりである。
 成長に限界が見えたのは、成熟期へ移行する時がきたということだ。
 ∞(無限大)をめざして成長してきた文明は〇(ゼロ)をめざして成熟する林住期にはいらなければならないのだ。
 では、〇をめざす成熟とはいかなるものか?
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# by kimizudo | 2006-12-04 04:24 | 田舎暮らし  

イシを読む。

イシ。副題北米最後の野生インディアン。シオドーラ・クローバー著。

以前に絶版となり図書館でかりてよんだものだが、復刊されていたので早速購入して読んだ。1911年に絶滅したと思われていたヤヒ族のインディアンが現代文明の国に突然あらわれた多くの教えを残して五年で免疫のない結核で死んだ。著者は、人類学者で、イシと友達となったクローバー教授の妻であり、ゲド戦記の著者の母である。白人の犯した罪を冷静に受け止めている。イシのはだしで歩く歩き方や、ボール投げなどは出来ないことなどは勉強になる。スペイン系の白人は絶滅でなく混血で征服するが、アングロサクソンは、人種差別が強いことが悲劇を生んだ。
弥生人が、縄文人に被さってきたときの状況は混血で征服したのだろう。しかし東北には、坂上田村麻呂の碑が多くあり、鬼伝説などは、容易には屈服しなかった強さもあった証拠か。
イシの人間としての慎みや、忍耐、温和など縄文人もそうであったかと思ってしまう。アメリカは、懐が深いと感じる。
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# by kimizudo | 2005-12-20 23:24 |  

土に立つ

地上に直に立つ感覚。
会社を少しだけ早めに辞めて、自由の身になって感じたこと。
5月病(大学受験が目標で達成されたあと、5月頃、無力感に襲われる)や甲子園児の、燃え尽き症候群とは違うと思うのだが、一つの目標が達成されて次のステップに入る中休みの感覚かと解釈してたこの感覚。それもあるかもしれないが次のように理解した。
景色が少し違って見えたのだ。周囲は何も変わらないのに。これは間違いなく自分が変わった事だ。自分の何が?。今までは、企業というシステムの中で自分が立っている。そこは透明であるが閉鎖された空間で鉄筋コンクリートの基盤で出来てる、その基盤の上に立って周囲、景色を見て世界を解釈していたのだ。今そこから離れて土の上にたつ。小石もあれば水分もある。草も生えれば雪も積もる。その土の上に立って周囲、景色を見たのだ。自分の立つ位置が変わることによる見え方の違いに気が付いたのだ。しかもこれが、周囲との関係において理解される自分の始まりのような気がする。今まではエアコンの利いた乗用車で走って来たがこれからは、馬とはいわないが、自転車をこいで周りと同じ空気を吸って進むのだ。
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# by kimizudo | 2005-09-13 17:56  

人間にとって農とは、私にとって農とは。

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大地に働きかけ、大地に従い大地とともに恵みを受ける。収穫物は感謝して頂その茎や根っこは土に返す。食べた物もまた土にかえる。最も単純な循環。最も小さな循環。大地の表面を傷める部分はできるだけ小さくし踏み固めることもできるだけ少なく。そんなことを無理なくできて十分自分の腹は満足できる。朝散歩しながら季節季節の果樹をつまみ空気を吸う。すでに虫や蜂や、小鳥がツツイてる。まーいいか商品ではないのだから。きゅうりもトマトもかじりながら戻ると朝食は終わり。デッキで紅茶を飲みながら山尾三省の本を少しだけ読む。遠くの山並みを眺めて朝寝となる。
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# by kimizudo | 2005-08-02 06:07  

農と食

食を求めるとどうしても農に行く。農耕の始まりは5千年あるいは1万年前とも言われる。2の原罪ともいえることがはじまる。1は、自然環境の破壊。2つは、余剰物の貯蔵による、富の偏在と権力の発生。この2は今日地球的規模で自然治癒力の範囲を超えようとしている。近代文明、西欧科学技術文明はその内包する問題が顕在化して地球全体を覆う。
科学技術だけでは、立ち行かないことに多くの人々が気付き新たなるパラダイムへの転換を模索している。
私はここに、己の分だけその原罪を引き受けなお今後のあるべきライフスタイルを求めて、農のある暮らしを照らしたい。
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# by kimizudo | 2005-07-31 22:05