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久しぶりに東京さ

行ってきました。本屋を覗いても
原発事故や震災などどこかの国のような実感のない空間東京。そんな気がしたのはヒガミか。

先の大戦では勝利は決定的なのにうじうじしてる間に原爆も実証できた。東京大空襲も戦況には関係なく戦争に負けることの悲惨さを非戦闘員に身にしみて実感させるためにやったとか。ここ長岡市は山本五十六の出身地であるという理由で徹底して空爆したとか。

人間も足の小指の先端の痛さも全体で共有できるよう脳にしっかり伝えるようにできている。しかしその集合体としての組織や社会はそのように機能してない。10兆円の景気対策も財源は国債.原発と同じ子孫へのつけ回し。現在の饗宴を維持したければその行く先は決まっているのに正直に言えば選挙に負けるし考えることさえしない。六ヶ所村で事故があっても東京は痛くないと思っている。経団連の会長も早く原発を動かし増設しろという、恐らくこの流れは「大空襲」まで止まらないでしょう

この国の民は自然との付き合い方を知恵として持ってるがそれが科学(人災)との付き合いに仇となってしまっている。水に流す、やり過ごす、ほおかむりする。忘れる。

それにしても誰も刑務所に入れられてないどころか年俸さえ保障されているこの集合体が一国として成り立ってるのか不思議である。

願う幸せとは他の命の最小限の犠牲の上に与えられるささやかなものでありたい

# by kimizudo | 2013-01-11 10:43  

放射能という形而上学

放射能が降っているという情報は地球上で人間だけが「理解」している。猫も鳥もミミズもかえるもタマネギもトマトもケヤキも銀杏も感知してない。生体で感知できないものを人間だけがをデータで20マイクロシーベルトなどと「理解」している。その理解は人間が作ったセンサーで表示しているだけだ。これは哲学ともいえる形而学上の理解である。だから一人ひとりその意味が違ってくる。恐い、恐くない人それぞれである。医学的結果もおそらくまちまちであろう。生物である人間が生物が感知できない世界に踏み込んだ原子力利用、遺伝子組み換えは人間だけに反逆する。人間だけがその罪を知っているから。牛も猫も大豆も魚も原子力と遺伝子組み換えには恐れはしない、ただ作為者人間だけがその罪(影響)を背負う。地球も然り。

# by kimizudo | 2011-06-14 20:17 | 田舎暮らし  

東北震災

http://www.mxtv.co.jp/nishibe/archive.php?show_date=20110319

# by kimizudo | 2011-04-10 20:51 | 田舎暮らし  

統帥

灼熱の中新宿西口で民主党代表候補者の立会演説があった。国民は取り敢えずはどちらかに総理大臣として国政に責任を任せることになる。その主張はそれぞれ良しとしても感じたことがある。SPはもちろろん武器保持のため、司会者も立会人も一歩下がる意味で上着を着用していたが。候補者一方はネクタイもし上着のボタンもしていた。一方は腕まくりの白シャツで腰に手を当てていた。
かって乃木希輔は203高地攻略に多大な犠牲を余儀なくされたがその風貌が悲しみをこらえるとして信をえたともいわれる。東郷元帥は日本海海戦で甲板で微動だにせずその足の裏だけがシブキをのがれたという。司馬遼太郎の創作としても、統帥するということの意味は行為でしか示せないということだろう。
さらに暑い翌日の大阪梅田でも同じであった


じゃんけんは?

# by kimizudo | 2010-09-04 20:41 | 時事雑感  

小さな希望

大きな壁に突き当たってるような時代。今までのシステムが通用しなくなってるのはなんとなく感じている。それが安心、安全を求める根底にあるような気がする。今の利益を求めて活動すると将来の不利益を増大してしまう。国内トップ会社が国際社会で生き残る為にやむをえず社員を解雇すると社会全体が元気がなくなってしまう。景気が悪いから立ち直る為には将来世代に借金を送らなければならない。今の快適な生活を求めて電気を使えば将来世代に解決不可能な核廃棄物を押し付ける。
 部分の利益を追求することが全体の不利益になり、かえって部分の不利益になる。今の利益を追求することが将来の不利益になってしまう。このことは現在の社会経済システムが限界に突き当たったという事ではないのだろうか。民主主義とか自由とかの価値観も含めて。理想を掲げて邁進する人生観も絶対ではなかった。何が原因しているかははっきりとは言えないが、複数の原因が輻輳してることは確かだろう。
 かつて成長・拡大時代の目標は解りやすかった。一所懸命勉強して就職に有利な大学に入学し大企業や役所に入り出世し高給を得て豪邸に住み妻子に恵まれ高級レジャーを楽しむ。研究者となって偉大な発見をし世の中に貢献する。これが疑いも無く今までは人生の目標になり得た。そして自分相応のミニチュア版を求めれば相応に満足できて「幸せ」を感じられた。自分の為に頑張ればそれが家族を幸せにし、会社も業績が上がり社会もよくなる。システムが有効であったから。それが必ずしもそうはならない事態に現在は困惑している。
 おそらくこのような価値観をささえられた一つには経済、人口、食糧、エネルギー等が無限に拡大できると仮定したシステムだからだろう。また全てのものは人間の為に利用してよいという人間優先主義も限界を露呈してきているのだろう。地球は有限であるという現実が人類の前にあらわれてきても経済は成長し続けること、生産は拡大しなければならないことこれをを止められない。人間の為に他の生物や自然を限界を超えて利用しなければ「豊か」になれないシステム。それにに呑みこまれた「幸せ」な生活。私たちは今いか程の厚く高い壁に直面してるのだろうか。

 真面目に働ける場があり、働くことによって家族も、地域も、環境もよりよい関係になってゆくそんな時代が確かにあったのだと思う。そんな地域が在ったのだと思う。それを新たな形で取り戻すためには歩んできた来し方を自分の足元で振り返ってみよう。
 例えば幸い今でも村の農家には縁側があり土間があり囲炉裏炬燵がある。そこは農作業の場でもあった。ここでは暮らしと仕事が融合していた。家族や地域とともに生活や仕事があった。個人が家族や地域や仕事や暮らし等と一体となってあった。今はそれらがそれぞれ離れていくように流れている。バラバラに離れていく現象は村にあっても都市と同じである。これが不安の基底となっている。しかし精神は去ろうとしても「囲炉裏」という形が残っている。形は再創造のきっかけとなりえる。
 そこを見つめながら様々な活動があれば、もしかして流されてゆく「つながり」を引きとめ新しい人の関係、自然との関係が創造できるのではないだろうか。小さな希望である。

# by kimizudo | 2010-08-05 09:06