田舎暮らしをしていて、とっくに都会では失っていたものが残ってたりすると何かホッとする。この極めて非論理的なしかし自分だけの例外ではないと思えるこの感覚は何を知らせているのだろうかと考えてきた。「棚田」の美しさなどは世界共通らしい。
よく通る道端に新しい建物が出来ると誰でも気が付く、しかしその前の建物がどんなであったかは関係の薄かった方には思い出しにくく、関係の深かった方には寂しささえ覚える。
都会にあって田舎にないものその逆のもの、この違いをどのような目で見るかは重要である。現代社会のメジャーなパラダイムで見れば田舎は遅れていて、都会は進んでいるのだから都会にあるもの(形あるものだけではなく)を田舎につくることは良い事となる。それはよい場合もあるだろうが、全て無分別に進める事が持つ危なさはよく自覚しなければ、せっかくある良さまで失う羽目になるだろう
一つの関心事は、「都会にあるものを田舎にも欲しいと思う人の心」のなかに入り込んでくるものである。それは観念としては都市の論理(進歩史観)であるがここでは問わない。
行動を起こせは人は変わる。以前の自分と全く同じではなくなる。田舎暮らしの行為実態があれば田舎のよさが身に付くが「カタログを見ればそれが欲しくなる」(都市の論理で田舎の空間に居ることの矛盾)。畑で野菜を植えたり、ブルーベリーの実や栗拾いをすれば身体に記憶として刻まれるがテレビを見れば頭がコンビニを要求する。日常である毎日の暮らしつまり足元が見えなければ、現実でない非日常のテレビの世界を「欲しい」と思ってしまうのだろう。
しかし歴史的に見れば簡単に転換しなかったことが生物としての保障でもあったのだ。遠くは、
農耕の知識と技術がないから狩猟時代が続いたわけではない。農耕の持つ食糧の安定確保という夢のような希望の裏で失うものの偉大さも知っていた。そこでは恐らく「生物の根源的喜び,,命の転移」みたいなものが失われて人類が動物と大きく乖離していく予感があったのではないか。近くは、文字が発明されて国家維持が容易になった。失ったものは、過去の平等性。「記録されていることが在ったたことで記録にない事実は歴史になかったに等しい」等とまことしやかに言われる。
失ったものが自覚できるとは、自分やその共同体が有している歴史、暮らしに誇り(アイデンティティ)があるということが第一である。いらないものは失っても自覚が薄く、大切に思えるものは自覚出来る。
現在進んでいるこの現実は何を得て何を失おうとしているか都市と田舎を見てその集団意識のなかに答えが少しは見えてくるかもしれない。