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食糧の安全と市場原理主義

資本主義的な市場経済の原理が極端に優位になって貨幣が全てとなった価値観。グローバル化というアメリカ型ローカリズム。これが行き着いた結果が様々な食の安全の崩壊である。道徳や倫理は当座の利益に反し、企業の中や個人の内部で消滅しようとしている。かすかに内部告発などの非常手段で問題が顕在化する。伊藤ハムの工場長の迷いはよく解る。原発の事故が常に隠蔽の方向に誘惑されるのも原因があるのだ。システムが目先利益優先になっているのは企業だけでない。

# by kimizudo | 2008-10-29 18:03 | 時事雑感  

ウソが暴かれる時代

秋には人の心も澄み見えてくるものがある。権力者が無責任をさらけ出し、会社が悪事を事業としている。人心の荒廃は頂点に達する。そして小さな悪事が見過ごされ自分を簡単に合理化する。心の持ち様はこのときこそ試される。反面生きている実感は利己の中には生まれないようになっていることを知るいい機会でもある。
政治、経済、文化、教育などの組織のあらゆる権力機構の執行者は「今を断ち切る」ことができるかが問われている。物騒な時代を迎えている。

# by kimizudo | 2008-09-08 06:01 | 時事雑感  

ライフスタイル

イラクでは毎月何百人もの命が絶えている。東京では残飯が最大の廃棄物となっている。インドでは世界有数の所得者がいて且つ餓死する人もいる。人為的なあるいは政治経済的なシステムは古代より格差が生まれ、解消する為にまた新たな格差を生み出してきた。歴史は進歩などしてない事が解かる。ヨーロッパローカリズムがグローバルと装って世界を席巻しようとしている。西欧文明が進んだ文明であり、世界の国がそれを見習い追いつくために努力する。日本は明治以来頑張ってきて横に並んだ(つもり)。しかしなんか変だ。と思う人が増えていると思う。最近解かった事だが日本が学んだ(まねした)西洋文明は実は都合のいい一部でしかなくヨーロッパ人が今でも悩み未解決の大きな問題など都合よく捨象してしまったらしい。ヨーロッパだけでなくアメリカでさえ起こりつつあるある大きな価値転換のうごめきが顕在化してきたとき、日本はどうしようとするのか。
 暫定税率は期間がきたら止めるから暫定なのに、一旦設定した税金は決して下げない等と大騒ぎしている日本は「お平和」である。これでは田中角栄も浮かばれない。

# by kimizudo | 2008-03-19 07:50 | 時事雑感  

過疎の由縁

私は元々の私ではない。周囲との関係の中で造られて来た。私の意志も関係の中で生まれささえられた。私個人が先に確立してあって周囲との関係が選択されてきたのではない。これは子どもでも60過ぎでも変わらない。私は個人の望みを遂げるただの個人ではない。個人主義はは品格を備えた利己主義であり、利己主義は品の悪い個人主義であると言ったのは トクヴィルであったか。
 善良な公的仮面を被って自己実現や生きがいを求める事は少しとどまってみること。人のためと称して実は自己の満足を得ることを知る。そしてなをその先に自然と人との関係が見えてくればその手法は見違えるほど違う。しかし似て非なる手法が通って行った後には自然と人心の荒廃が残る。そして人は益々個人化していく。今過疎に悩む農山村が問われている一つはこの関係性の断裂なのではないか。

# by kimizudo | 2008-03-18 08:04 | 田舎暮らし  

失ったものを自覚できないこと

田舎暮らしをしていて、とっくに都会では失っていたものが残ってたりすると何かホッとする。この極めて非論理的なしかし自分だけの例外ではないと思えるこの感覚は何を知らせているのだろうかと考えてきた。「棚田」の美しさなどは世界共通らしい。

よく通る道端に新しい建物が出来ると誰でも気が付く、しかしその前の建物がどんなであったかは関係の薄かった方には思い出しにくく、関係の深かった方には寂しささえ覚える。

 都会にあって田舎にないものその逆のもの、この違いをどのような目で見るかは重要である。現代社会のメジャーなパラダイムで見れば田舎は遅れていて、都会は進んでいるのだから都会にあるもの(形あるものだけではなく)を田舎につくることは良い事となる。それはよい場合もあるだろうが、全て無分別に進める事が持つ危なさはよく自覚しなければ、せっかくある良さまで失う羽目になるだろう

一つの関心事は、「都会にあるものを田舎にも欲しいと思う人の心」のなかに入り込んでくるものである。それは観念としては都市の論理(進歩史観)であるがここでは問わない。
行動を起こせは人は変わる。以前の自分と全く同じではなくなる。田舎暮らしの行為実態があれば田舎のよさが身に付くが「カタログを見ればそれが欲しくなる」(都市の論理で田舎の空間に居ることの矛盾)。畑で野菜を植えたり、ブルーベリーの実や栗拾いをすれば身体に記憶として刻まれるがテレビを見れば頭がコンビニを要求する。日常である毎日の暮らしつまり足元が見えなければ、現実でない非日常のテレビの世界を「欲しい」と思ってしまうのだろう。

しかし歴史的に見れば簡単に転換しなかったことが生物としての保障でもあったのだ。遠くは、
農耕の知識と技術がないから狩猟時代が続いたわけではない。農耕の持つ食糧の安定確保という夢のような希望の裏で失うものの偉大さも知っていた。そこでは恐らく「生物の根源的喜び,,命の転移」みたいなものが失われて人類が動物と大きく乖離していく予感があったのではないか。近くは、文字が発明されて国家維持が容易になった。失ったものは、過去の平等性。「記録されていることが在ったたことで記録にない事実は歴史になかったに等しい」等とまことしやかに言われる。
失ったものが自覚できるとは、自分やその共同体が有している歴史、暮らしに誇り(アイデンティティ)があるということが第一である。いらないものは失っても自覚が薄く、大切に思えるものは自覚出来る。
現在進んでいるこの現実は何を得て何を失おうとしているか都市と田舎を見てその集団意識のなかに答えが少しは見えてくるかもしれない。

# by kimizudo | 2008-02-26 09:13 | 田舎暮らし